これが自業自得の結果であることは、わかっていた。けれど、わかっていても空一面に広がる暗い灰色と、アスファルトを叩き続ける雨粒を前にして、は忌々しいと長い溜め息を吐かずにはいられなかった。
二日後に祖国で行われる会議のために作成していた資料が、某大国の思いつきにより大幅に変更しなければならなくなった、と雇い主から報告を受けたのが今朝。九日ぶりの休日を返上し、昼食も惜しんで新たな資料作成に没頭したが職場(という名の日本家屋)を出たのは、終電に間に合うぎりぎりの時刻だった。朝の天気予報でお姉さんが言っていたとおりに降り出した雨を、もう三年は使い続けている傘で遮って駅に向かった。狙い通りの電車に乗り込み空いていた席に座った途端、うとうとと眠ってしまったのがおよそ四十分前。そして、自宅の最寄り駅で目を覚まし、飛び降りたのが五分前だ。
の横を通り抜け、傘を差して夜の闇に消える人影も減り、月の光も差さない黒の中で淋しげに明かりを灯す駅の改札口は、まるでジオラマのように静かだった。もう十分もすれば、上りの最終電車がやってきて、駅の明かりが消され、自分はここから追い出されてしまうのだろうか。何度見返しても空っぽな自分の左手を見て、もう一度雨空を見上げる。傘を差さずに歩くにはやや適さない雨量は、どうみても十分以内に弱まってくれそうにはない。時折、駅の屋根に溜まった水がボトリと大きな音を鳴らして地面ではねた。弾け飛んだ飛沫が足元に届き、思わず一歩足をひく。けれど、水を避けたはずの足は、見事に床のくぼみの水溜りにダイブした。ああもう、踏んだり蹴ったりだ。何もかもが、車内に傘を忘れてしまうなんて失態を晒したを嘲笑っているように思えて仕方がなかった。


「はあ…ほんとに、どうしましょう」


普段であれば、こんな時間に申し訳ないと思いつつも同じ家に住まう兄に電話をするのだが、四日前から出張で大阪に行ってしまって家には誰もいない。最寄のコンビニは、駅と家の中間地点で走っても五分はかかるし、私鉄の小さな駅では、駅前で拾えるタクシーの数も限られ、出遅れてしまった今となっては一台も残ってはいなかった。むしろ、平常のであればタクシーに乗る代金を払うくらいなら、走って帰ることを選ぶのだが、今日に限ってはあまり雨に濡れるわけにはならない理由があった。しっかりと右肩にかけたショルダーバッグ。その中には、明日の資料作成のために必要な書類が入っている。眠る前に確認をしたいと考え、持ち帰ったのが間違いだったのか。布製の鞄は、いとも容易く水を染みとおす。いくらクリアファイルに挟んでいるとは言え、この雨の中を行けば、家につくころには中の書類がそれはもう悲惨なものに変貌を遂げていることだろう。おそらく、紙の原型を留めてはいまい。

だからこそ、これは自業自得の結果なのだ。は足元に視線を落とし、大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出した。
いくら小さな文字や見慣れない言語、数字と睨めっこをして疲れていたとは言え、電車の中で熟睡してしまうなんて。それも、倒してしまわないようにと手すりにかけていた傘の存在を完全に失念するくらい深くなんて、大失態としか言いようがない。唯一の救いは下車駅で目を覚ますことができたことだが、今となってはそれも大した救済にはなりそうになかった。決断のときは、着々と迫っていた。
もう一度、意味のない期待を籠めては暗い空を見上げた。雨は止まない。それどころか、先ほどよりも勢いを増したようにも見える。どうやら、これ以上粘っていても、無力感が嵩んでいくだけのようだ。きゅっと下唇を噛み締め、は肩からおろした鞄をトレンチコートの内側に包み込むように抱えた。女は度胸。行くと決めた以上、一気に家まで走ってしまおう。少しでも書類への被害を軽減できるよう、確かめるように強く鞄を抱きしめ、一歩を踏み出そうとした、瞬間だった。


ちゃん?」


踏み出しかけた足を咄嗟に止め、慌てて振り返る。声は、後からかけられたようだ。自分の背には、二台の改札機。そのすぐ傍に、声の主はいた。

「フェリ…くん?」
「やっぱりちゃんだった。こんな時間にどうしたの?」

にっこりと効果音が付きそうな笑顔を浮かべて駆け寄ってきたのは、くるんとはねた栗色の髪に人懐っこい表情が特徴的な青年――フェリシアーノだった。
いつものようにヴェーと不思議な声で鳴いて、の体をぎゅっと抱きしめ頬にキスをしてくるフェリシアーノに逃げ腰になりつつ、「フェリくんこそ」と喉から必死に搾り出して尋ねる。他の国たちよりも個人として近しい関係になった今でも、慣れないものは慣れないのだ。それを知ってか知らずか、腕を伸ばした分だけ離れたフェリシアーノは、愛らしい仕草で小首を傾げて言った。

「俺はねーほら、もうすぐ日本で世界会議があるでしょ?本当は当日に来る予定だったんだけど、ちゃんに逢えるかなって思って早く来てみちゃった」
「え…お仕事、大丈夫だったんですか?」
「もっちろん。しっかり終わらせてきたのであります!」
「そうだったんですか…」
「それで、ちゃんはどうしたの?もう、すっごい遅い時間だよね」

眦を下げた顔は心配してくれている感情をありのままに伝えてきて、思わずの口からは後ろめたさからか呻き声が漏れてしまった。素直に「仕事で菊さんの家にいました」と言えばいいだけの話なのだが、未だに駅に残っていた理由が理由なだけに、なかなか話にくいところがあるのだ。
とは言っても嘘を吐く理由もないし、と視線を彷徨わせ悩んでいると、ずいと近づいてくる褐色の瞳。日本ではあまり見られない色が近づくと、の心臓は条件反射でドクンと鳴った。ああ、もう。どうしてこの人たちは、揃いも揃ってこんなに整った顔をしているのだろう。当時から何度も思ってきたが、日本では信じられないほどの過剰なスキンシップを当たり前のように行うのなら、もう少し自身を鑑みるようにしてほしい。自分のような庶民には、少々刺激が強すぎるというものだ。

「あの、フェリくん…近いです」
「えー恋人同士なんだから普通だよ。それに、ちゃんが何にも言ってくれないから。気になっちゃうじゃん」
「べ、別に大した理由じゃないですよ。ただちょっと、菊さんのお宅でお仕事していただけで」
「そうなの?じゃあ、もう家に帰るところ?」
「そのつもりだったのですが傘を忘れてしまって悩んでいたところなんですっ」

遠のかない距離に必死に身体を反らして、大きく頷く。語尾が突き放すように大きくなってしまったのは、彼の顔があまりにも近かくて驚いた所為だ。断じて、照れているわけではない。こんなにも必死に言い聞かせている自分が滑稽なような情けないような気もしたが、更に身体も顔も近づいてくるフェリシアーノを前に平静を装うには、そうするしかなかった。
どくんどくんと遊錘を低くしたメトロノームのように心音が早足で鳴り続けている。このまま響き続けたら、あっという間に壊れてしまうのではないだろうか。そんな詮無いことを考えていると、とても近い距離で「なーんだ」と明るい音が聞こえた。

「だったら俺の傘に入っていけばいいよ!」
「え、」
「えへへー日本ではこういうの、『アイアイガサ』って言うんでしょ?俺、一度やってみたかったんだよね」
「あ、の」
「前に俺とルートでアイアイガサのポスター作ったことあってさ、その時に教えてもらったんだ。ルートには怒られちゃったけど…ちゃんも、いや?」
「そっ、んなことは、ないです…けど」

俯き加減で応えれば、返ってくるのは嬉しそうな安堵の声。
そして、同時にバサッと何かが開く音がして右手が引かれた。その勢いで一歩二歩と動き出した足が向かったのは、大きな青い傘の下で、にこにこと笑う彼の隣。「ほら、濡れちゃうよ」と言ってさっきよりもしっかりと指を絡めて手のひらを繋ぐと、フェリシアーノは雨の中でも輝く太陽みたいに微笑んだ。

「…あの、フェリくん」
「んーなあに?」
「……来てくれて、ありがとうございます」

そう言って、きゅっと握り返した手のひらは、先ほどよりも強く握られた。
濡れてしまわないようにと言い訳をして寄り添った腕に伝わる体温に、現金だとわかっていながら安堵して。傘を忘れた八分前の自分に少しばかり感謝していることに気付いたは、ほどほどに絆されている自分に呆れ、傘を叩く雨音の中、短く息を吐くのだった。



( 「本当は、電車の中からきみに気付いていて、傘を忘れて降りたところも見てたんだけど、
  おんなじ傘に入って歩きたかったから黙ってたんだ」って言っても、きっとちゃんは許してくれるよね )