堅い床に尻餅をついたアントーニョは、一体全体何が原因でこんな状態になってしまったのかを考えていた。
どん、と強い力で胸を押されたのが十秒前。すっぽりと収まる小さな温もりを両腕でしっかりと抱き締めていたのが十五秒前。挨拶の代わりにほんのりと色付いた両頬にキスをしたのが三十秒前。これまた挨拶代わりに軽くハグをしたのが四十秒前。そして、愛しい愛しい恋人と二カ月ぶりに再会したのか、わずか六十秒前のことだった。
とても長いとは言えない時間の中でいったい何があっただろう。頭上にクエスチョンマークをいくつも浮かべたまま、アントーニョは更に記憶を遡らせた。
彼女の祖国で、ひらひらと舞い散る薄桃色の下を手をつないで歩いたのが六十一日前。シウタデリャ公園のベンチに並んで座り、「おいしいですね」とチュロスを頬張る満面の笑みを眺めたのが八十八日前。突然訪ねてきたロヴィーノに彼女との関係をわざと口を滑らせて、あんぐり大口を開けた後、涙目で緑のトマトを投げつけられたのが九十六日前。そして、サン・ヴァレンティーンの日に日本の変わった風習を説明されたあと、手作りのザッハトルテを渡されたのが百二十一日前のことだ。
今でも思い出すだけで口元がだらしなくにやけてしまうほど、鮮やかな色彩で彩られた日々。お互いに暮らす国が違うから(アントーニョは一緒に暮らしたいと思っているのだが、彼女の過保護な保護者が頑なに拒否するのだった)毎日逢えるわけではないけれど、それでもシエロのような倖せを育めていると当たり前に信じていた。
「……ちゃん?」
「あ…」
に突き飛ばされてから六十秒の間でそれだけ思考を巡らせたアントーニョは、ゆっくりと視線を上げた。のつま先、膝、腰から胸へとのぼり、ようやくたどり着いたその場所は、なぜか色を失い固まっていた。ちゃん、と彼女の夜色の瞳を見つめて問い掛ける。途端、カクンと勢い良く彼女の頭が下がってきた。
「す、すみません!あの、あ…えっと」
「ちゃん、落ち着いたって。ほら、ゆっくりでええで」
慌てふためくが少しでも落ち着くようにと、目前まで近づいてきた頭のてっぺんをいいこいいこと撫でつける。
そういえば、ちゃんにこんなふうに触れるのも、二カ月ぶりなんやなぁ、とこみ上げる倖福を噛み締め―――――ることは、再びすごい勢いで遠のいた彼女の所為でできなかった。
「ご、ごめんなさい…!わっ、私、今日は失礼します!!」
「え、な、ちょっ!ちゃん!?」
ガタン、バタ、ドカンッと漫画みたいな音をかき鳴らして、の背中が遠ざかっていく。大慌てで立ち上がろうと床についた手のひらに力をこめる。けれど、玄関の扉を閉める一瞬、見えてしまった彼女の横顔に縫い止められて、結局アントーニョは消えていくの背を見送るのだった。
「…むっちゃ卑怯やん、それ」
見えたのは、夕陽のように朱く染まった頬と耳と首筋。
それから、百二十一日前と同じ、躊躇いと恥じらいと戸惑いと、それらを全部くるみこんでしまうくらいの歓びで潤んだ瞳。まるであの日を再現しているようなの姿に緩む口元を、いよいよ抑えきれるはずもなかった。
「なんやの、それ…めっちゃ、可愛過ぎるやん!」
言い終わるやいなや勢い良く立ち上がり、閉じたばかりの扉を開け放ってアントーニョは走り出す。そこにはすでに彼女の背中は見当たらなかったけれど、アントーニョは迷わなかった。見つけられないわけがない。追いつけない、なんてありえない。だってこんなにも、今、抱きしめたくて仕方がないから。
あの背中に届いたら、今度は思いっきり抱きしめて、長い長いキスをしよう。
そう心に決めて、飛び跳ねるように走るアントーニョの顔には、へにゃりとゆるんだ笑みが浮かんでいた。