( プレルーディオ 日曜 昼 日曜 夜 火曜 夜 火曜 深夜 土曜 昼 土曜 夕 リコルダンツァ )
とある時代のとある国のとある街で、少女は生を受けました。
少女は両親の顔を知りませんでした。物心ついたときには、少女は親のいない子どもばかりの家で過ごしていました。家の主はとても優しい人でした。一緒に暮らす子ども達も、きょうだいのように仲良しでした。けれど、少女の歳が両手いっぱいになるころ、マフィアの抗争に巻き込まれて家はめちゃくちゃになってしまいました。
ひとり、夜の街に投げ出された少女は途方にくれました。
ああ、わたしはこれからどうなってしまうんだろう。
夜の街は騒がしく、たくさんの人で溢れていましたが、少女はひとりぼっちでした。
とても淋しくて悲しくて。さびしくてさびしくてさびしくて、少女はとうとう人ごみから外れた路地でしゃがみ込んでしまいました。
そんな少女を見つけたのは、ひとりの若い青年でした。
青年はしゃがみこんだ少女の頭を撫でると、にっこり満面の笑みを浮かべて少女の手を引いてくれました。青年の手はとてもあたたかく、少女の頬を濡らしていた泪はいつのまにか止まっていました。
それから少女は、青年と、青年の家で居候していた少年に囲まれ、健やかに成長していきました。
そうして成長した少女は、名立たるマフィアに怖れられるほどの「情報屋」となったのでした。
黒いジャケットに同色のストレートパンツを身に纏った年頃の女性がひとり、頭上でくくったダークブラウンの髪を揺らしながら楽しげに歩みを進めている。足元のやや低いヒールが奏でる音は床に引かれた真っ赤な絨毯に吸い込まれて響くことはなかったが、その足取りがまるでステップでも踏むように軽やかだったことは、誰の眼にも明らかだった。淡いルージュで彩られた唇は綻んでいるし、頬も先ほどから緩みっぱなしで、すれ違ったメイド服の少女に生暖かな視線を送られたくらいに、彼女は浮かれていた。ここが自宅であったならば、思わずくるくると回りだしてしまったかもしれない。もちろん、ここでは論外だが。
なぜ、彼女がこんなにもご機嫌かと言えば、理由は三つあった。
一つ目は非常に単純な話だが、ほんの数分前まで行っていた「仕事」の商談が非常に上手くいったのであった。こちらが持ってきた情報に対し、提示された報酬が予想外に高かった。やはり、向こうが切羽詰るまで粘ったのがよかったのかもしれない。これだけ臨時収入があったら、あの子たちに新しいおもちゃでも買ってあげられるかもな〜と契約中に頭の中で電卓を叩いていたのはもちろんトップシークレットである。
二つ目の理由は、今日が月に一度の特別な日だからである。これについては、彼女の行動をもう少し追っていけば自ずとみえてくるので、今は詳しい説明を省くことにしよう。
そして最後の理由。それが、彼女の心を浮き足立たせる最大の原因でもあった。
束の間の、ではあったが。
「ーーーー!!!」
ずべしぃ!とでも効果音を付けたくなるような勢いで飛び込んできた青年は、彼女――がひょいと身体を横にずらしたせいで、ありがたくも絨毯と熱烈な抱擁を交わすこととなった。
ああ、なんてこったい。の周辺を彩っていたはずのキラキラが、一瞬にしてもやもやに変わった。せっかく今日は逢わずに済んだと思ったのに。のご機嫌の最後にして最大の理由であった「この男に逢わずにすんだこと」は、一瞬にして粉々に砕かれたのであった。
「いてて…ヴェー避けるなんてひどいよ、!」
「それはそれは申し訳ありません、ヴァルガス様。てっきり背後から商売敵でも現われたのかと思ってしまいまして。肉体派ではないので、とりあえず逃げるのがスタンスなんですよね、私」
「もー、違うよ。俺はフェリシアーノ、だってば」
どうやら思い切り打ち付けたらしく、絨毯の色をそのまま写し取ったように染まった鼻を押さえるフェリシアーノ・ヴァルガスは、素早く立ち上がると「えへへー」と笑ってもう一度に飛び掛ってきた。
「ストップ。何する気ですか、ヴァルガス様」
「フェリシアーノ!」
「………」
「昔みたいに、フェリシアーノ、って呼んで」
「………フェリシアーノ」
どうにか伸ばした腕の分だけ距離を保ちつつ、渋々目の前の男の名前を口にする。
途端、目を丸くして歯を見せて笑った男―フェリシアーノ・ヴァルガス―は、が先ほど商談を終えたばかりの「ヴァルガスファミリー」の若きボスのひとりであった。「ヴァルガスファミリー」と言えば、この国だけでなく世界中の裏社会に名を轟かせる名門ファミリーで、その規模も影響力も計り知れないものがある。こうして時々情報を買い取ってくれる上客ではあったが、この世界の情報にいくらか精通したでも彼らの全貌を把握するにはまだ至ってはいない。一言で言えば、底知れない組織なのである。
そんな世界規模の巨大ファミリーのボスといえば、当然世界中に存在する構成員を束ねる存在である。現在の「ヴァルガスファミリー」は異例のボス二名体制を取ってはいるが、幹部を従えるだけの実力と、巨大な組織を把握する統率力、そしてなにより、この人物を守ろうと思わせるだけのカリスマ性が求められる大層な役職だ。いっそ、ツチノコの方が遭遇率が高いんじゃないかってくらい、レアな存在、なはずなのである。
間違っても、こんな一介の情報屋にファーストネームを呼ばれて喜び、無防備に「はぐはぐー」と両腕を広げている男、でいいわけがない。
「??難しい顔して、どうしたの?」
「……あんたが原因だって、そろそろ気付かないの?」
「えぇっ!?俺、を困らせるようなことしちゃった!?」
「あんたの存在自体が私を困らせてる」
不機嫌な顔を逸らして突き放すように答えれば、フェリシアーノはこの世の終わりみたいに慌てふためく。もしかして、こういうところが守ってあげたくなるのだろうか。そんなカリスマ性、私はゴメンだわ。頭の中で溜め息混じりに考える。
フェリシアーノ・ヴァルガスとが知り合ったのは、彼がボスを襲名する前のことだった。まだ幼さが残る頃のフェリシアーノは、今以上に愛らしい男の子で、御伽噺のお姫様みたいと本気で思ったくらいだった。ちなみに、性格についてはあまり変わっていない。今も昔も、フェリシアーノは甘えん坊で、泣き虫で、感情的で、佐倉を見つけるたびにハグとキスを強請ってくる、へたれだった。
本当にこんなのがボスで、このファミリーは大丈夫なんだろうか。とりあえず今日商談を行った幹部はムキムキで強そうだったし、ちょっと生真面目そうだったが仕事もできそうな男だったので、しっかり報酬は振り込んでくれるだろうけど。むしろ、あっちの方がボスっぽい。どう考えても、フェリシアーノはボスっぽくない。いまだにお姫様の方が似合いそうだ。
なんて、口にしたらそこいらでこちらの様子を伺っているファミリーの面々に抹殺されてしまいそうなことを考えながら、は今にも泣き出しそうなフェリシアーノに視線を戻した。
「あんたね、いい加減に誰彼構わず飛び込む癖、直したら?」
「えー俺、誰にでもしてるわけじゃないよ」
「じゃあ、少なくとも私相手に飛び込んでこないで。というか、やったらめったら話かけてこないで。こないだなんて、キエフのパーティで名前呼んだでしょ」
「うん。だってのこと見つけたら、我慢できなかったんだもん」
「あ・の・ねぇ!私はあんたのとこのファミリーじゃないの!どこにも所属してないのに、あんなとこであんたと親しくしてるの見られたら、仕事がし難くなるでしょーが!」
が持ち出したキエフのパーティとは、表面上「ヴァルガスファミリー」と同盟を結んでいる北方の有力マフィア、「キエフファミリー」が開催したものであった。素性を隠しそれに参加していたを目敏くも見つけたフェリシアーノが、大声での名前を呼び、さらには駆け寄ってきたことで、の仕事は散々だった。ああいったパーティの席では、裏で幹部同士の密会が行われることが多い。ぜひその情報を入手しようと思っていたのに。ヴァルガスのボスが話しかけた相手など、どこを歩いていても注目を浴びてしまい、結局顔が知れ渡らないうちにそそくさと退散することしかできなかった。
「あんた、いったいどれだけ私の仕事、邪魔したら気が済むの?わざと?わざとなの、それ」
「わざとって…うーん、だったら、が俺のファミリーに入っちゃえばいいんだよ!そしたら、俺と話しててもおかしくないでしょ?」
「却下」
「ヴェッ!即答!?」
彼特有の変な鳴き声を最後まで聞かず、すっと横を通って再び、今度はかなりの早足では歩き出す。「待ってよ!」と呼び止める声が聞えた気がするが、幻聴と判断した。これは空耳。もしくは妖精さんたちの声。あー私、ちょっと疲れてるのかなー。半ば駆け足で逃げるように邸の出口を目指していただったが、その歩みは後から回された両腕によって阻まれてしまった。
「ぎゃっ!」
「、待って、ってば!」
「離せ触るな邪魔するな」
「もーそんなに嫌がらないでよ。ひどいなー」
ぎゅっと背後から腰のあたりを一周する腕はやはりどんなにへたれていても異性のもので、力を籠めても振りほどけなかった。なんとかしてこの男から解放されなければと必死になるだったが、そんな彼女を嘲笑うように楽しげなフェリシアーノの声が鼓膜を震わせた。しかも、随分と耳に近い位置で。
「ふふっ、かわいー」
「な、っにが、楽しいの!」
「んー必死で抵抗するが、かな?でも、今日はこれだけにするから、そんな怖い声ださないで?ね?」
「な…っ!!」
それから、ちゅっと鳴らされたリップ音と頬に触れた生温い感触。やられた。が抱いた感想は、その一言に尽きた。
「えっへへ〜 と挨拶完了なのであります!」
「………もう、絶対………ない」
「え?」
「もう絶ぇぇっ対に、ヴァルガスファミリーには近寄らない、って言ったの!!」
今後「ヴァルガスファミリー」から依頼があっても、絶対に受けてなんかやるもんか。上客だけど知ったこっちゃない。別にここと取り引きしなくたって、なんとかなるもん。キスと同時に緩んだ腕を力任せに振りほどき、今度こそはズカズカ絨毯の上を突き進んだ。
その後姿を、にんまり瞳を細めて見送るフェリシアーノを目撃し、隠れていた護衛のひとりが「こえぇぇぇ!」と絶叫したのは、かくしもが邸を出た直後のことだった。