それは、裏の世界で生きる彼女の小さな日常(APH、マフィアパロ)

プレルーディオ 日曜 昼 日曜 夜 火曜 夜 火曜 深夜 土曜 昼 土曜 夕 リコルダンツァ






















 
とある時代のとある国のとある街で、少女は生を受けました。

少女は両親の顔を知りませんでした。物心ついたときには、少女は親のいない子どもばかりの家で過ごしていました。家の主はとても優しい人でした。一緒に暮らす子ども達も、きょうだいのように仲良しでした。けれど、少女の歳が両手いっぱいになるころ、マフィアの抗争に巻き込まれて家はめちゃくちゃになってしまいました。

ひとり、夜の街に投げ出された少女は途方にくれました。

ああ、わたしはこれからどうなってしまうんだろう。

夜の街は騒がしく、たくさんの人で溢れていましたが、少女はひとりぼっちでした。
とても淋しくて悲しくて。さびしくてさびしくてさびしくて、少女はとうとう人ごみから外れた路地でしゃがみ込んでしまいました。

そんな少女を見つけたのは、ひとりの若い青年でした。

青年はしゃがみこんだ少女の頭を撫でると、にっこり満面の笑みを浮かべて少女の手を引いてくれました。青年の手はとてもあたたかく、少女の頬を濡らしていた泪はいつのまにか止まっていました。

それから少女は、青年と、青年の家で居候していた少年に囲まれ、健やかに成長していきました。




そうして成長した少女は、名立たるマフィアに怖れられるほどの「情報屋」となったのでした。






マフィアと情報屋


( どうやって「情報屋」をしてるかって?実は妖精さんたちの力を借りてるの、って言ったらあなたは信じる? )

































 
黒いジャケットに同色のストレートパンツを身に纏った年頃の女性がひとり、頭上でくくったダークブラウンの髪を揺らしながら楽しげに歩みを進めている。足元のやや低いヒールが奏でる音は床に引かれた真っ赤な絨毯に吸い込まれて響くことはなかったが、その足取りがまるでステップでも踏むように軽やかだったことは、誰の眼にも明らかだった。淡いルージュで彩られた唇は綻んでいるし、頬も先ほどから緩みっぱなしで、すれ違ったメイド服の少女に生暖かな視線を送られたくらいに、彼女は浮かれていた。ここが自宅であったならば、思わずくるくると回りだしてしまったかもしれない。もちろん、ここでは論外だが。
なぜ、彼女がこんなにもご機嫌かと言えば、理由は三つあった。
一つ目は非常に単純な話だが、ほんの数分前まで行っていた「仕事」の商談が非常に上手くいったのであった。こちらが持ってきた情報に対し、提示された報酬が予想外に高かった。やはり、向こうが切羽詰るまで粘ったのがよかったのかもしれない。これだけ臨時収入があったら、あの子たちに新しいおもちゃでも買ってあげられるかもな〜と契約中に頭の中で電卓を叩いていたのはもちろんトップシークレットである。
二つ目の理由は、今日が月に一度の特別な日だからである。これについては、彼女の行動をもう少し追っていけば自ずとみえてくるので、今は詳しい説明を省くことにしよう。
そして最後の理由。それが、彼女の心を浮き足立たせる最大の原因でもあった。

束の間の、ではあったが。


ーーーー!!!」


ずべしぃ!とでも効果音を付けたくなるような勢いで飛び込んできた青年は、彼女――がひょいと身体を横にずらしたせいで、ありがたくも絨毯と熱烈な抱擁を交わすこととなった。
ああ、なんてこったい。の周辺を彩っていたはずのキラキラが、一瞬にしてもやもやに変わった。せっかく今日は逢わずに済んだと思ったのに。のご機嫌の最後にして最大の理由であった「この男に逢わずにすんだこと」は、一瞬にして粉々に砕かれたのであった。

「いてて…ヴェー避けるなんてひどいよ、!」
「それはそれは申し訳ありません、ヴァルガス様。てっきり背後から商売敵でも現われたのかと思ってしまいまして。肉体派ではないので、とりあえず逃げるのがスタンスなんですよね、私」
「もー、違うよ。俺はフェリシアーノ、だってば」

どうやら思い切り打ち付けたらしく、絨毯の色をそのまま写し取ったように染まった鼻を押さえるフェリシアーノ・ヴァルガスは、素早く立ち上がると「えへへー」と笑ってもう一度に飛び掛ってきた。

「ストップ。何する気ですか、ヴァルガス様」
「フェリシアーノ!」
「………」
「昔みたいに、フェリシアーノ、って呼んで」
「………フェリシアーノ」

どうにか伸ばした腕の分だけ距離を保ちつつ、渋々目の前の男の名前を口にする。
途端、目を丸くして歯を見せて笑った男―フェリシアーノ・ヴァルガス―は、が先ほど商談を終えたばかりの「ヴァルガスファミリー」の若きボスのひとりであった。「ヴァルガスファミリー」と言えば、この国だけでなく世界中の裏社会に名を轟かせる名門ファミリーで、その規模も影響力も計り知れないものがある。こうして時々情報を買い取ってくれる上客ではあったが、この世界の情報にいくらか精通したでも彼らの全貌を把握するにはまだ至ってはいない。一言で言えば、底知れない組織なのである。
そんな世界規模の巨大ファミリーのボスといえば、当然世界中に存在する構成員を束ねる存在である。現在の「ヴァルガスファミリー」は異例のボス二名体制を取ってはいるが、幹部を従えるだけの実力と、巨大な組織を把握する統率力、そしてなにより、この人物を守ろうと思わせるだけのカリスマ性が求められる大層な役職だ。いっそ、ツチノコの方が遭遇率が高いんじゃないかってくらい、レアな存在、なはずなのである。
間違っても、こんな一介の情報屋にファーストネームを呼ばれて喜び、無防備に「はぐはぐー」と両腕を広げている男、でいいわけがない。

?難しい顔して、どうしたの?」
「……あんたが原因だって、そろそろ気付かないの?」
「えぇっ!?俺、を困らせるようなことしちゃった!?」
「あんたの存在自体が私を困らせてる」

不機嫌な顔を逸らして突き放すように答えれば、フェリシアーノはこの世の終わりみたいに慌てふためく。もしかして、こういうところが守ってあげたくなるのだろうか。そんなカリスマ性、私はゴメンだわ。頭の中で溜め息混じりに考える。
フェリシアーノ・ヴァルガスとが知り合ったのは、彼がボスを襲名する前のことだった。まだ幼さが残る頃のフェリシアーノは、今以上に愛らしい男の子で、御伽噺のお姫様みたいと本気で思ったくらいだった。ちなみに、性格についてはあまり変わっていない。今も昔も、フェリシアーノは甘えん坊で、泣き虫で、感情的で、佐倉を見つけるたびにハグとキスを強請ってくる、へたれだった。
本当にこんなのがボスで、このファミリーは大丈夫なんだろうか。とりあえず今日商談を行った幹部はムキムキで強そうだったし、ちょっと生真面目そうだったが仕事もできそうな男だったので、しっかり報酬は振り込んでくれるだろうけど。むしろ、あっちの方がボスっぽい。どう考えても、フェリシアーノはボスっぽくない。いまだにお姫様の方が似合いそうだ。
なんて、口にしたらそこいらでこちらの様子を伺っているファミリーの面々に抹殺されてしまいそうなことを考えながら、は今にも泣き出しそうなフェリシアーノに視線を戻した。

「あんたね、いい加減に誰彼構わず飛び込む癖、直したら?」
「えー俺、誰にでもしてるわけじゃないよ」
「じゃあ、少なくとも私相手に飛び込んでこないで。というか、やったらめったら話かけてこないで。こないだなんて、キエフのパーティで名前呼んだでしょ」
「うん。だってのこと見つけたら、我慢できなかったんだもん」
「あ・の・ねぇ!私はあんたのとこのファミリーじゃないの!どこにも所属してないのに、あんなとこであんたと親しくしてるの見られたら、仕事がし難くなるでしょーが!」

が持ち出したキエフのパーティとは、表面上「ヴァルガスファミリー」と同盟を結んでいる北方の有力マフィア、「キエフファミリー」が開催したものであった。素性を隠しそれに参加していたを目敏くも見つけたフェリシアーノが、大声での名前を呼び、さらには駆け寄ってきたことで、の仕事は散々だった。ああいったパーティの席では、裏で幹部同士の密会が行われることが多い。ぜひその情報を入手しようと思っていたのに。ヴァルガスのボスが話しかけた相手など、どこを歩いていても注目を浴びてしまい、結局顔が知れ渡らないうちにそそくさと退散することしかできなかった。

「あんた、いったいどれだけ私の仕事、邪魔したら気が済むの?わざと?わざとなの、それ」
「わざとって…うーん、だったら、が俺のファミリーに入っちゃえばいいんだよ!そしたら、俺と話しててもおかしくないでしょ?」
「却下」
「ヴェッ!即答!?」

彼特有の変な鳴き声を最後まで聞かず、すっと横を通って再び、今度はかなりの早足では歩き出す。「待ってよ!」と呼び止める声が聞えた気がするが、幻聴と判断した。これは空耳。もしくは妖精さんたちの声。あー私、ちょっと疲れてるのかなー。半ば駆け足で逃げるように邸の出口を目指していただったが、その歩みは後から回された両腕によって阻まれてしまった。

「ぎゃっ!」
、待って、ってば!」
「離せ触るな邪魔するな」
「もーそんなに嫌がらないでよ。ひどいなー

ぎゅっと背後から腰のあたりを一周する腕はやはりどんなにへたれていても異性のもので、力を籠めても振りほどけなかった。なんとかしてこの男から解放されなければと必死になるだったが、そんな彼女を嘲笑うように楽しげなフェリシアーノの声が鼓膜を震わせた。しかも、随分と耳に近い位置で。

「ふふっ、かわいー」
「な、っにが、楽しいの!」
「んー必死で抵抗するが、かな?でも、今日はこれだけにするから、そんな怖い声ださないで?ね?」
「な…っ!!」

それから、ちゅっと鳴らされたリップ音と頬に触れた生温い感触。やられた。が抱いた感想は、その一言に尽きた。

「えっへへ〜 と挨拶完了なのであります!」
「………もう、絶対………ない」
「え?」
「もう絶ぇぇっ対に、ヴァルガスファミリーには近寄らない、って言ったの!!」

今後「ヴァルガスファミリー」から依頼があっても、絶対に受けてなんかやるもんか。上客だけど知ったこっちゃない。別にここと取り引きしなくたって、なんとかなるもん。キスと同時に緩んだ腕を力任せに振りほどき、今度こそはズカズカ絨毯の上を突き進んだ。
その後姿を、にんまり瞳を細めて見送るフェリシアーノを目撃し、隠れていた護衛のひとりが「こえぇぇぇ!」と絶叫したのは、かくしもが邸を出た直後のことだった。






予感、予兆、ほぼ確信


( 気をつけて?本気になったら俺、無理やりにだって"ファミリー"にしちゃうかもしれないよ )

































 
「いっただっきまーす!」

色とりどりの料理と、数種類の酒瓶が並べられたテーブルが置かれた部屋は、今や芳しい香りで充満していた。
盛大なかけ声と同時に、テーブルに伸ばされた腕。その先に握られたスプーンは、一直線にテーブルの上のパエージャに向かった。大きめのスプーンで鮮やかに色付いたライスを直接すくい、思い切り口を開いてパクリと食いつく。途端、ふるふると震える両肩。しっかりと口に含んだ分を咀嚼し飲み込んだの唇が、再び大声で叫んだ。

「おいしー!やっぱり、アントーニョの作るパエージャは世界で一番ね!」

そう言って浮かべらた満面の笑みに、左隣の席に座った青年も嬉しそうに破顔するしかなかった。

さて、先ほど「ヴァルガスファミリー」の邸にて、一仕事および一騒動を終えてきたは、その足である部屋を訪ねていた。下町のアパートメントの一室は、狭いながらに小ざっぱりとしており、生活の匂いは薄いが清潔にされていた。おそらく、この日の前に掃除を済ませてくれているのだろう。二口目のパエージャを嚥下しながら、は思った。
が訪ねた部屋は、目の前のテーブルに並んだ料理の半分を作った青年―アントーニョ・フェルナンデス・カリエド―のセカンドハウスのひとつだった。普段は別の場所で寝起きをしている彼だが、そこでは行えない様々な場合に対応するために、国中にいくつもの部屋を持っている。どの程度の数がどこに存在しているのかは自身も知らないが、がアントーニョと食事をするときは、いつもこの部屋でと決まっていた。

「そない褒めても、なんもでえへんよ」
「だって美味しいものは美味しいんだもん。ほら、ロヴィーノも食べてみなよ!」
「煩ぇ、叫ぶな」

呆れた調子で悪態を吐いたロヴィーノと呼ばれた青年は、口から飛び出た溜め息を飲み込むようにラ・トラッペを傾けた。口内に広がる後味を堪能し熱い息を吐き出して、赤のマークがプリントされた瓶をテーブルに置く。それからフォークに手を伸ばしたところで、ロヴィーノは恨めしげな視線がいまだにから向けられていることに気付いた。

「……んだよ」
「ロヴィってば、冷めてるーもう、せっかくの夜なのになんでそんなふうに言うのかな」
「せやで。月に一度の大事な夜やん」

左右から向けられる不満げな声と表情にさすがに堪えたのか、ロヴィーノの形の良い眉の間に皺が寄る。それを誤魔化すように、無言でフォークを伸ばすと、カプレーゼをぶすりと突き刺した。

三脚の椅子とテーブルだけでいっぱいになった狭い部屋の中で、そんな夕食を囲むアントーニョ、ロヴィーノ、の三人は、血の繋がらない家族だった。少なくとも、はそう思っていた。
幼い頃、家を失い路頭を彷徨っていたを拾ったのがアントーニョだった。それから彼の家に居候していたロヴィーノを交え、彼らはこの部屋で一緒に暮らしていた。一番年長のアントーニョとですら片手ほどしか年齢が離れていないので、どちらかというと兄妹のように見られることが多いが、からすればロヴィーノはダメなお兄ちゃんであったが、アントーニョは父親のような存在でもあった。そしてなにより、たくさんのものを一挙に喪ったに、それ以上にたくさんのものを与えてくれた、大切な存在だった。
成長し、それぞれの道を歩むようになった今でも、毎月最終週の休養日は必ず時間をあわせ、こうしてこの家で夕食をとる。それが三人だけの決まりごとだ。特には彼らと完全に袂を分ってしまったため、普段はこんなふうに飾らずに話すことも適わないので、今日という日を毎月楽しみにしているのである。

そんな日だからこそ、心躍る自分に対して妙に冷めた姿勢のロヴィーノが、には少しばかり淋しく見えた。もちろん、これがロヴィーノなりの照れ隠しであることは重々知っているのだが、時には素直に喜びを示してほしいと思うのは我が侭ではないはずだ。部屋に入るなり骨が軋むほどに抱きしめてくる、アントーニョ級にとは言わないが。

「ロヴィーノは内と外、きっかり分けてくれるからさ。ありがたくはあるんだけどちょっとだけ寂しいなあ」
「はあ?お前それ、バカ弟に言ってんのと矛盾してるだろ」
「…あれは極端すぎだから」
「まあ、ロヴィにもにも立場があるからなあ。我が侭言うたらあかんよ、
「むぅ」

立場。その単語を出されてしまえば、にはもう何も言えないし、昔のように優しく頭を撫でられてしまえば、トゲトゲした心も和らいでしまうというものだ。
ロヴィーノ・ヴァルガスが「ヴァルガスファミリー」の二人目のボスで、アントーニョ・フェルナンデス・カリエドが同ファミリーの幹部であると知っていながら、無所属の「情報屋」という道を選んだのは自身だ。普段の彼らとは、お得意さんではあったとしても家族にはなりえない。たとえ直接逢う機会があったとしても、ロヴィーノがと会話することは皆無だった。なんたって、巨大ファミリーのボスである。フェリシアーノが異例なだけで、たかが一介の情報屋が親しくするなんて通常はありえないはずなのだ。
だからこそ、はこの時間がなによりも愛おしかった。ロヴィーノ・ヴァルガスがファミリーのボスとして下している事柄を知っている。アントーニョ・フェルナンデス・カリエドが幹部として何をしているのかを知っている。けれど、たとえ何をしていようとも、誰を手にかけていようとも、にとって二人は「家族」なのだ。
代わりのきかない、唯一無二の、ファミリー。

「大体、そんなに言うんだったらお前が俺らのところに入ればいいだけだろ」
「せやで。なあなあ、なんではどこにも属さへんの?」
「んーだって、なんか変じゃない?今更ロヴィーノに忠誠誓うとかって。兄妹みたいなもんだしさ」

それに、フェリシアーノに忠誠のキスとかしたくないしね。
軽口を叩いて笑ってみせるだったが、ロヴィーノもアントーニョも知っていた。がどのファミリーにも属さないわけを。
本音を言えば、今すぐにでも「情報屋」なんて危険な仕事から足を洗ってほしいし、自分達のファミリーに所属してほしかった。なんといっても、家族なのだ。ロヴィーノからすれば、離れて成長した血の繋がりある弟よりも、との方がよっぽど距離が近い。傷ついてほしくないし、苦労してほしくないし、危ない橋だって渡ってほしくない。許されるならば、自分たちの手で守りたい。いつだって、そう思っている。
なんら暗い影を背負うことなく、無邪気に口元を綻ばせて今度はロヴィーノの作ったパスタを食べるを見て、二人はテーブルの下で密かに拳を握った。

「そーいえば、。今日はうちに来とったんやって?」
「うん、そーだよ。ムキムキさんにすっごい金額つけてもらっちゃった」
「やっぱなぁ。俺んとこにさっき、フェリちゃんからバレナーレんとこの仕事がようやく来たから、そうやと思たわ」
「ああ、あそこな。ようやく潰せるのか。いい加減鬱陶しかったからな」
「鬱陶しい言うたら、東と西んとこもやんか」
「まぁな。けど、まだ何にも動いてこねー以上、こっちからは動けねーだろ」
「……どうでもいけど、そういうの私がいるとこで話していいんだ」
「別にいーだろ。お前だって情報提供してんだし」
「まあねえ。そういえば、あそこのファミリーのボスってさ、ほんとに噂どおりの甘党なんだね。こないだ街でたまたまナンパされてさ、カフェでカンノーロにジャムたっぷり乗せて食べだして、びっくりしちゃった」
「はあっ!?」
「なんやって!?」

突如ガタンと大きな音をたてて立ち上がった二人の家族に、の目がくるんと丸くなる。驚きで数回瞬きを繰り返していると、二人の背中になにやらおどろおどろしい空気が見えた気がした。あまりの変貌具合に、ごくんと飲み込んだトルティージャが喉に詰まりそうになった。

「な…なに?どうかした?」
「どうかしたって…あかんわー、
「なにが?」
「お前、なんでそういう大事なことをもっと早く言わねーんだこのやろー!」
「甘党の話?それって大事なことなの?」

見当外れなの問いかけに、ゆっくりと席に座りなおした二人が答えることはなかった。
その後、何事もなかったかのように再開された夕食は一見なごやかに続いた。が、時折何かを思い出したように思い切り食材に突き立てられるフォークや、どうにも背筋が冷え冷えする二人の笑顔に、は首を傾げるのであった。






永遠に思えるような


( こいつに手ぇ出したいなら、俺たちを倒してからじゃなかきゃ許さ(ないぜ)(へんで)! )

































 
夜でも賑わいを保つ市街地を抜け、田園風景が続く農耕地へマキシスクーターを五分ほど走らせた場所に、その家はあった。
低いレンガに囲われた色の褪せたベージュの建物は、昔はこの地域の教会としても使われていたらしい。いまだに残るのは夜空に手を伸ばす鐘楼と、背の高い重厚な扉くらいだが、時折子どもたちにせがまれて鳴らす鐘の音が、は嫌いではなかった。
囲いの内側にスクーターを停め、荷台に括りつけていた紙袋を降ろす。両手でそれを抱えると、はできるだけ静かに我が家の扉を開けた。
実に、三日ぶりの帰宅であった。

「た、ただいま〜」
「遅い」
「うげ…」

どうしてこの人は、こうもタイミングよく現われるのやら。扉の前で仁王立ちしていた青年を見上げ、は幾度となく考えたことのある疑問を頭に浮かべていた。
青年は、とにかく真っ先に目が向かってしまう自己主張の激しい眉毛と、それすらひとつの個性として片付けてしまえるくらいに整った顔立ちをしていた。名をアーサーという。ちなみに、顔も人柄も良いくせに、料理が極悪という驚異的な個性の持ち主でもあった。
そのアーサーが、今や口端をあげ、端正な頬を引き攣らせてを見下ろしていた。メドウグリーンの瞳が存分に語っている。いったいどこをほっつき歩いていたのだ、と。

「え、えっと〜……遅くなってごめん!」
「ごめんじゃねえ!お前、この間約束したよな?必ず日付が変わるまでには帰るって言ったよなぁ!?」
「いや、だから一昨日はお泊りしてくるって」
「じゃあ、なんで昨日も帰ってきてねぇんだよ!!」

ご尤もである。
元々、がお泊りをしてくると宣言していたのは、アントーニョとロヴィーノとの夕食会の日だけだった。その日はどうせ夜中まで喋り明かすことがわかっていたから、事前に連絡していたのである。ちなみに、その前日は仕事で帰れず、昨日はちょっとした厄介ごとに巻き込まれ、家路に着くことができなかったのだが、の仕事を知らないアーサーにそれを明かすことはできるわけもない。
従って、に残された道は、とにかく平謝りすることだけ、なのである。

「だいたいな、親代わりのお前がそんなんじゃ、ガキ共が真似するだろーが!」
「ご、ごめんなさい…」
「俺だって昼間はでてんだし、その間に何かあったらどうする気なんだ」
「仰るとおりで」
「…そ、それに、お前に何かあったら…」
「え?」
「べ、別に心配してるわけじゃねーぞ!お前に何かあったら、ガキ共が煩くて俺の仕事が増えるからな!それだけなんだからな!!」
「うるさいのは君なんだぞ、アーサー!」
「あの、アーサーさん…できれば、もう少し静かに…」
「アル!マシュー!」

アーサーを前に縮こまっていたの身体が、奥の扉から現われた二人を目にし、途端に膨らんだ。助かった!と喉まで出かかった歓喜は呑みこんだが、滲み出る感情までは隠すことができなかったようで、ギロリとアーサーに睨まれてしまった。

アントーニョの家を出たは、今はこの元教会でアーサーやアルフレッド、マシュー、そして親のいない六人の子どもと共に暮らしている。
元々は、この土地と建物の持ち主であるアーサーが、しばらく放置している間に住み着いてしまった子どもの処遇を考えていた時に、がたまたまそれを知ったのが始まりだった。アーサーと交渉し、破格の賃料で土地と建物を借りて、は子どもたちと暮らすことにしたのである。初めのうちは色々と確執もあったが、今では子どもたちとも打ち解け、は彼らの親のような、姉のような、手のかかる友達のような存在に落ち着いている。
そんなの行動に共感したらしいアーサーが、同じく親のいないアルフレッドとマシューともうひとりの子どもを連れて、一緒に暮らすようになるまでに時間はかからなかった。ついでに、時折アーサーの友人を名乗るちょっと変わった「自称お兄さん」が訪ねてくるようになったのも、その直後である。
ちなみに、とアーサーが昼間、仕事で家を空けている間は、最年長(といっても、より年下だが)のアルフレッドとマシューが子どもたちの面倒を見ている。主にアルフレッドが遊び担当で、マシューが家事担当だ。マシューの作るメイプルシロップのかかったホットケーキは、の大好物でもあった。

「帰りが遅くなってごめんね。みんな、元気にしてる?」
「うん、もちろん。今はもう寝ちゃってるけど、みんなに逢いたがってるよ」
「そうなんだぞ、!三日もいったいどこに行ってたんだい?」
「ちょっと仕事が長引いちゃって。あ、そだ。これ、みんなにお土産」

鋭い視線にビクビクしながら、抱えた紙袋を二人に手渡す。中を覗き込んだアルフレッドとマシューが、うわぁ、と感嘆の声を漏らした。

「すごいんだぞ!これ、新作のゲーム機じゃないか!」
「こっちはケーキだね。それにビスコッティも」
「お前な…こんなもの買ってくる時間があるなら、もうちょっと早く帰ってこいよな」
「…ごめんなさい」

どうやら本気でご立腹らしいアーサーの怒りは、いまだに収まらないようだ。いつも濁すばかりで、きちんと仕事のことを伝えていないのも原因なのだろう。けれど、はこんなふうに憤るアーサーが嫌いではなかった。だってこれは、自分を心配してくれる証拠だから。
アントーニョやロヴィーノよりも付き合いは短いし、全てを曝け出せる相手でもない。隠し事なんて、ありすぎて数え切れないくらいだ。
けれど、それでもこうして傍にいてくれるのが、アーサーだった。どれだけが約束を破っても、隠し事をしていても、帰りが遅くなるだけでこんなに心配してくれる。

「あの…ね、アーサー」
「…なんだ」
「アーサーにも、お土産」
「………は?」
「ほら、アーサーが前に好きだって行ってた店でね、新作ブレンドがでてたの!だから、買ってきちゃったんだけど…わ、賄賂とかじゃないからね!」
「お、おう」

新しいゲーム機とお菓子の数々に釘付けな二人にばれないよう、落とした声で小さな紙袋を押し付ける。予想だにしていなかったらしいアーサーは、なぜか袋を受け取った体制で固まってしまった。賄賂のつもりでなかったのは本当だが、確実にその役割は果たしてしまったようである。

「そうだ、。お腹減ってない?」
「あ、減ってるかも」
「よかった。夕飯のシチューが残ってるから、温めてくるね」
「やった!じゃあ私、急いで着替えてくるね」
「俺も食べるんだぞー!」

おー!と右手を振り上げるアルフレッドにつられ、もおー!と声をあげる。子どもたちが起きるから、と慌てたマシューと、ようやく現実に戻って来たアーサーに二人がかりで再び説教されるのも、これまたいつもの光景であった。






ほんの少しだけ、変わる


( ちなみに「自称お兄さん」は、夜九時以降の出入りを一切禁止されています。 )

































 
夜の中で、夕焼け空が煌めいていた。
藍色の暗闇が、幼いころのは苦手だった。灯りのないそこは、以外の全ての存在を消し去ってしまうからだ。すぐそばにあるはずのものさえ、目視できなくなる。まるでそこには自分のほかに何もなくなってしまったような世界が、は嫌いだった。だから、真っ暗な部屋で眠るときは同室のフランチェスカと手を繋いでいないとダメだったし、夏に行った度胸試しでは立ち竦み泣き出して、スタートすることすらできなかった。
だから、オレンジ色のゆらゆら揺れる「それ」が、もしかしたら自分の願望だったのかと恐ろしくなったのだ。
自分が夜を怖がるから。
暗いのが嫌で、眠るときは灯りをつけてほしいと強請ったから。
だからこんなに、燃えているのだろうか。
ミシリと何かが軋む音がして、の目前に焼け焦げた柱が崩れ落ちる。地面で弾けとんだ何かが、の足に飛んできた気がした。けれど、熱さは欠片も感じなかった。

これは、なに?どうしてこんなことが起こってるの?

お使いを、頼まれたのだ。今日は先生の誕生日だったから。みんなでこつこつ貯めたお小遣いで、先生にプレゼントを買うのだと、決めたのだ。それから、この間街で教えてもらった「じゃんけん」という遊びで、お使い担当を勝ち取ったが、みんなで相談して決めた髪飾りを買いに行った。夕方、先生の目を盗んで抜け出して。 街がなんだかざわついていて、帰るのが遅くなってしまったけれど、夕食には間に合ったはずだった。先生はもしかしたら気付いているかもしれない。でも、きっとこれを渡したら、喜んでくれるはずだ。少しだけ、怒られるかもしれないけれど。
笑って。ありがとう、って笑って、みんなの頭を撫でてくれる。

手の中で握った、髪飾りの先端が手のひらに突き刺さっている。爪も、突き刺さっている。ああ、なぜだろう。火の傍にいるくせに、全然暑くなんてないのに。どうして目頭だけが、こんなにも熱いのだろう。にはわからなかった。ずぶずぶと沈んでいくような足元。対照的に身体から抜けていっていく何か。熱い瞳。冷たい頬。いたい手のひら。痛い。傷い。いたい。

ありがとう、って笑ってくれる。
そう、思っていたのに。




「っ……!!」

飛び起きたが最初に見たのは、赤でもオレンジでも黒でもなく、部屋の小さな灯りを取り込んでキラキラ輝くメドウグリーンの瞳だった。

「アー…サ…?」
「大丈夫か?」
「あ…うん」

とても大丈夫とは言い難い状況であることは、誰の目にも明らかだった。目覚めたの額にはねっとりとした汗が滲んでいたし、荒い呼吸も戻らない。大きく上下する肺は存在を主張していたし、シーツを握る手のひらは見っとも無いほどに震えていた。
ベッドに腰掛けたアーサーは、黙したままそんなの手のひらを握った。

「また…うるさかった?」
「いや、たまたま部屋の前を通ったときに、聞えただけだ」
「そっか。ごめん、迷惑かけて」
「別に、迷惑なんて言ってないだろっ」

こうしてが夜中、目を覚ますのは初めてではなかった。四、五日に一度、こうして必ずはあの日の夢を見る。それも、あの数分間の記憶だけを、繰り返し。あのシーンのあとで、自分はアントーニョと出逢うはずなのに、夢の中ではそこまで時間が進むことはなかった。何もできないまま、どこにも進めないまま、救いも、罰も、なにもない。ただ無知で無力で無意味なが、永遠に、あの家の前で立ち竦むのだ。アントーニョたちと暮らしていたときから続くそれは、成長した今も回数を減らすことなく、を蝕み続けている。
レースの織物でも扱うみたいに優しく、そっと握られた手のひらから、アーサーの体温が伝わっていた。普段よりも高く感じるそれに、は自分の指先が冷え切っていることに気付いた。
少しずつ、霧が晴れていく思考とともに、取り戻される正常な呼吸音。ほっと、小さく息を吐く音がの耳に届く。は、アーサーのそんなところが好きだった。

「……ありがとう、アーサー。もう落ち着いたみたい」
「無理、するな。寝ろよ。…ここに、居てやるから」
「え!べ、つに、いいよ」
「ばーか。そんな青ざめた顔で言っても、説得力ないんだよ」

とん、と軽く押されただけでベッドに倒れこんだ身体に、自分の状況を実感する。寝転んだまま見上げたアーサーの瞳が、揺らいでいるようにには見えた。そういえば、アーサーは泣いている子どもをあやすのが上手いのだ。もしかして、自分も同等の認定を受けているのだろうか。
握られた手のひらが温かくて気持ちが良い。逆の手で、汗ではりついた前髪が払われる。その手がそのまま頭を撫でつけ、伝わる気持ちよさには自然と目蓋を閉じていた。



しばらくして、規則的な寝息がの小さな口から漏れるのを見て、アーサーは安堵の声を漏らした。指どおりの良い髪を撫で続けていた手を離し、目尻に溜まった雫をすくう。その指を自身の口元に運び舌で舐めれば、しょっぱいような甘いような、不思議な味がした。
真夜中に飛び起きるにアーサーが気付いたのは、彼女と暮らすようになってしばらくしてからだった。
彼女は基本的に、自分のことを話さない女性であった。歳が自分よりも下なこと。両親と呼べる人間がもういないこと。兄のような育ての親がいること。のプライベートでアーサーが彼女から聞いたのは、それくらいのものだった。もちろん、それ以外のことも今は知っているのだが。

「おっ、お姫様はもうお休み中か」
「……黙れ、このワイン野郎が」

いつのまにやら忍び込んでいたらしい髭面の男に、ギロリとした視線の刃が突き刺さる。が、それにめげた様子もなく、現われた男は芝居がかった仕草で額を押さえた。

「なんだよ、アーサー。ちゃんがお前の前で無防備に寝ちゃうからって、お兄さんに当たるなよなー」
「っんで、そんなことでお前に当たんなきゃなんねーんだよ!」
「ほらほら、大きな声ださなーい。ちゃんが起きちゃうでしょ」
「…今すぐてめぇの存在を消してやろうか」

軽く本気の発言であった。
さすがに異様な雰囲気に気付いたらしく、男は降参と言わんばかりに両腕を上げる。幸いというべきか、アーサーの片手はいまだにと繋がったままだったので、即座に拳が飛んでくることもなかったようだ。まったくもって、普段の彼からは考えられないような態度である。

「いやーしっかし元ヤンのお前が、こんなに骨抜きにされちゃうとはねぇ」
「……うるせぇよ、フランシス」
ちゃん、びっくりするんじゃない?お前が、カークランドグループの総帥だって知ったらさ」

もしも今、が起きていたならば、一昨日の晩にアントーニョとロヴィーノが話していた内容を思い出しただろう。近ごろになって、随分と鬱陶しい動きをするようになってきた、東と西。当然もその話は知っている。東の「王家」と西の「カークランドグループ」。どちらも表向きは長い歴史を持つ有名企業だ。もちろん、裏社会でもその影響力は強い。特に西の「カークランドグループ」は、比較的ここから近い位置に本社があることもあり、も動向を注視していた。しかし、不思議なことに裏の「カークランドグループ」は、トップの名前も幹部の構成も、その存在全てが謎に包まれた組織だった。
ちなみに、「カークランドグループ」の総帥の名を、アーサー・カークランドと言い、フランシス・ボヌフォワ、アルフレッド・F・ジョーンズ、マシュー・ウィリアムズの名が幹部に連なっていることは、グループの上層部のメンバーしか知らない。なにせが情報収集を手伝ってもらっている妖精さんを、全力でアーサーが拒んでいるのだから、いくら優秀な「情報屋」のといえど、掴めるわけがないのである。

「…お前さ。どーすんの、これから」

長い沈黙のあとで、フランシスの声が部屋に響いた。
繋いだ手のひらが、冷え切ったの体温を伝えていた。彼女の過去も、家族も、今も、アーサーは知っている。こうして彼女が震える理由を知ったときは、原因を作ったファミリーをぶっ潰してやろうかと思ったし、毎月必ずと夕食を囲む二人をボコボコにしてやりたいと計画したこともある。
そんなにも、骨抜きにされているのだ。アーサーがしていることを全部知っているフランシスだからこそ、言いたくなるのだろう。いったいこれから、どうするつもりなのか、と。

「お前がどれだけ対策練っても、本格的に動き出せば隠しきれない。そうしたらお前、どうするわけ?」
「…………俺は、」

冷たい手のひらを、暖めてやりたいと思うことは罪だろうか。零れ落ちる涙を舐め取ってやりたいと願うのは、傲慢だろうか。
健やかに、穏やかに眠るの寝顔を見下ろしながら、アーサーは握る手のひらに力を籠めた。答えは、きっと夜明けになっても出ないだろう。






鮮明、苛烈、離れない


( そういやてめぇ!夜九時以降は立ち入り禁止っつってんだろー!! ) ( ギャー!!! )

































 
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「はい?」

朝市の喧騒が落ち着き、人の流れが大分疎らになった市場で声をかけられたは、足を止めて振り返った。聞き覚えのない声だな。振り返りながら浮かんだのは、そんな感想だった。そしてその感想は、振り返った先にいた亜細亜系の男性を見て、確信に変わった。

さん、ですよね」
「あの…どちら様、ですか?」
「ああ、すみません。いきなりお名前を呼ばれたら、びっくりされますよね」

てっきりナンパかと思ったが、どうやら違うらしい。ペコペコと腰が低いらしく何度も頭を下げるナンパが存在するだろうか。否、いない。少なくとも、の知識の中には存在していなかった。
ということは、純粋に自分に用があって呼び止めたということだろうか。名前も知られているようだし。もしかして、やはりどこかで逢ったことがあったのだろうか。
声をかけてきた男性は、さらさらの黒髪と同色の瞳、穏やかな物腰が印象に残る人だった。随分と若く見えるが、亜細亜の人は童顔が多いと聞くから、意外によりも年上なのかもしれない。もしかして、小さい頃に逢ったことがあるのだろうか。それなりに自信のある記憶力を総動員して頭の中を引っくり返すが、引き出しの埃溜まりを漁ってみても、彼の顔は見当たらなかった。

「申し遅れました。私は、本田菊と申します」
「はあ」
「先日は、私の家族がお世話になりました」
「…………あっ!」

もう一度、深々と下げられた黒い頭を見て、ようやく佐倉は五日前の出来事を思い出した。
五日前、アントーニョのセカンドハウスから帰宅しようと街を歩いていたは、仲の良い妖精さんから妙な話を聞いた。本通りを一本外れた路地裏で、小さな女の子が虐められている、というのである。荒れているというわけでもないが、治安が良いとも言い難い街である。裏側で行われる喧嘩や犯罪行為がゼロでないことはとて知っている。だが、さすがに後ろめたいのか、陽の高いうちからそういったことが起こることは滅多にないのも実情だ。にもかかわらず、とは。気が付けば、同居人行きつけの茶葉専門店に向かっていた足が、薄暗い路地へと向いていたのだった。
そこでがガラの悪い五人組から助けたのが、台湾と名乗る幼い少女だった。まだ十を過ぎたくらいだろうか。あどけなさの残る黒髪の少女は、必死に涙を堪えた瞳でを見上げると、何度も何度も「謝謝」と異国の言葉を口にした。
本来なら、すぐにでも家族の元に連れて行ってあげたかったのだが、言葉が通じなかったことと、台湾自身が家族から逸れてしまっていた迷子だったこと、そして何より意外としつこかった五人組から逃げる過程で、随分な距離を移動してしまったために、結局は台湾を連れたまま夜を迎えてしまったのであった。
ちなみにガラの悪い五人組は、壊滅カウントダウン中だった「バレナーレファミリー」の下っ端だった。少女を連れて撒いただけだったので、さすがに家に連れ帰るわけにもいかず、悩みに悩んだは初対面の少女と二人、一晩を安宿で過ごすことを選んだのである。これが、アーサーたちに思い切り怒られた原因であった。
恐らく台湾が身に着けていた異国情緒たっぷりの服装と、小奇麗な様子が目を付けられたのだろう。自身もあまり顔を見られていなかったらしく、次の日には追手も現われることなく、と台湾はほっとした心持ちで安宿を後にした。それからようやく元いた市場に戻り、大泣きしながら台湾を探す亜細亜人の傍で台湾とは別れた。さすがに一晩も連れまわしてしまったとあれば、自分が訴えられかねない。台湾には申し訳なかったが、佐倉の意図を察してくれたらしい賢い少女に手を振って、は物陰から感動の再会を傍観して、その場を去ったのである。

さて、そんな具合に決着のついた事件だったので、自身はもう一度この件について話題があがるとは到底考えもしていなかったのであった。何せ、自分が残したものと言えば、台湾の中の記憶と、という名前だけである。台湾と再会する可能性だって、そうそう高くはないはずだ。
にもかかわらず、目の前の男は間違うことなく、のことを呼び止めた。瞬間的に、の中で何かが警告音を発した。それを察したらしい男は、ふわりとはにかむと小さな声で言った。

「『王家』の人間です、と言ったほうが、貴女には良いでしょうか」
「………最悪、です」
「後悔しました?」
「もちろんですよ。あ、台湾ちゃんを助けたことを、じゃないですよ。あなたに呼び止められたときに、無視しなかったことを、です」

できるだけ無表情でが告げると、本田菊と名乗った男は嬉しそうに目元を緩めたのだった。




「それで、本田菊さんは私になんのご用でしょうか?」

半強制的に同席させられたオープンカフェで、注文したカフェ・ラッテを待つ間、堪えきれずには尋ねた。目の前の男と言えば、どこからか取り出したらしいカメラでカフェからの眺めにシャッターを切っている。パシャパシャと繰り返される音が半端ない。ちょっとこの人、何しに来たの。丸テーブルの下で握り拳を震わせる自分の行動は、真っ当なものなはずだ。ついでにこのまま、テーブルを引っくり返して思い切り投げつけてやろうかと計画もしたが、実行に移す七秒前に本田菊の視線がこちらに向いた。あからさまな舌打ちがから響いたのは、気のせいではないだろう。

「ああ、すみません。異国に来るのは、久々だったもので。少々興奮してしまったようですね」
「…そんな観光客っぷりを発揮してると、荷物掏られますよ」
「おや、心配してくださるんですか?さんはお優しいですね」
「ここのカフェ・ラッテ代を出したくないだけです。で、いったいなんの用なんですか。私だって、暇じゃないんですけど」

パシャ。不意に切られたシャッター音。反射的に閉じた目蓋を開くと、の眼前で、本田菊が一眼レフの仰々しいカメラを構えている姿が映った。それから、もう一度パシャリ。右目を開いたまま、左目でファインダーを覗く本田菊の口元は、綺麗な弧を描いていた。

「なんのつもりです」
「深い意味はありませんよ。ただ、異国に来るのは、久々だったもので」
「それ、さっきも聞きました」
「あの子に頼まれているのですよ。姐姐の写真が欲しい、と」

もう一枚、と今度は断ってからシャッターを押した本田菊は、ようやくカメラをテーブルの上におろすと、目蓋を伏せて微笑んだ。毒気が抜かれるとは、こういう状況を指すのだろうか。はいつの間にやら緩んでいた拳に気付き、頭を抱えて嘆息した。
目の前の男は、本田菊と名乗った。それから、が出逢った台湾の家族で、「王家」の人間だと、言った。正直、どこまで信じていいものか悩むではあったが、東の「王家」の上層部に「本田菊」という名の人物がいることは、風の噂で聞いたことがあった。ある程度知られた名でもあるので、騙っている可能性はある。だが、は彼の言葉が嘘ではないように感じていた。つまり、今目の前にいる本田菊は「王家」の幹部である「本田菊」で、台湾は「王家」のおそらく上層部と係わりある少女で。ついでに、本当に台湾の頼みでの写真を撮りに来ているのかもしれない、と本気で考えてしまったほどだった。

「と、いうのは七割で、きちんとほかの用事もありますよ」
「半分以上それなんですか、目的」
「ええ、まあそんなところです。おかしいですか?」
「…よく、わかりません。ただ、てっきり台湾ちゃんを一晩連れまわしたことで仕返しでも受けるのかと思ってたんで」
「その件は、仕様のなかったことですから。あの子を拐かそうとした五人組と、付き添いの部下の失態の方がよっぽど問題です」
「……怖いですね」

本音だった。底の見えない真っ黒な瞳が、ゆらりと色を深めた瞬間、は自分の勘が真実だったことを確信した。おそらくこれから、があの日の五人組に遭遇することは一生ないのだろう。それから、泣きながら台湾と再会を果たしたあの亜細亜人とも。
そんなの心境を知ってか知らずか、変わらぬ微笑を口元に称えたまま、本田菊は言う。

「そうですか?私などよりも『バレナーレ』を完膚なきまでに潰してしまった、とある組織の方々の方が、よっぽど怖いと思いますが」
「……マジ?」
「まじです。」

ぼっこぼこだったそうですよ。にこにこ楽しげに瞳が笑う。
当然のようにの頭に浮かんだのは、太陽の笑顔を持つ青年の姿。確かに、あのファミリーを叩けるだけの情報を売ったのはだ。けれど、かの「ヴァルガスファミリー」が中小マフィアの「バレナーレファミリー」にそこまでするとは、到底考えられるものではなかった。まさか、が得ている情報以上の確執が、両ファミリーの間にはあったのだろうか。それとも、

「貴女のご家族は、随分と狭量なのでしょうか」
「…言ってる意味がわかりません」
「そうですか?まあ、いいですけど」
「この話が、残りの三割なんですか?」
「いえ、まさか」

短く返された返答のあとで、コトリと硬い音が鳴る。音源に視線を向けたが見たのは、桃色の飾り紐が結ばれた小さな箱だった。ちょうどの両手にすっぽりと収まるくらいの大きさだ。もしかして、爆発物?右、左と様々な角度から眺めていると、くすくすと本田菊の笑い声が耳を揺すった。

「そんなに警戒しないでください。あの子が泣いてしまいますよ」
「え…もしかして、台湾ちゃんから?」
「ええ、そうです。あの日のお礼、だそうです」

驚愕を隠せぬまま、は改めて小箱を見つめた。太めの紐で包装されたそれは、一見して可愛らしい印象を与えるが、よくよく見れば結び目は歪んでいるし、箱を包む異国の紙も所々皺が寄ってしまっていた。
これととても似たものを、は見たことがあった。数年前、アルフレッドとマシューと、六人の子どもたちがにくれた誕生日プレゼント。手作りのブレスレットを自分たちで包装して贈ってくれた。それはお世辞にも上手とは言えない代物だったけれど、にはどんなアクセサリーよりも嬉しかった。どのくらいかといえば、今でもお守りとして、鞄の中に入れているくらいであった。
台湾からと渡されたその箱は、あの日のプレゼントに良く似ていた。恐る恐る、は両手を伸ばす。左右から包み込むようにそれを持ち上げると、微かな衝撃で結ばれた紐が片角から解けてしまった。それが何故だか切っ掛けとなって、はにへらと無防備に表情を緩めた。

パシャリ。

そんな音が、即座に現実へと引き戻すのだが。

「……………」
「ごちそうさまです」
「もう、なんて言ったらいいのかわかんないです」
「お粗末さまです、と答えるのが我が国では主流ですね」
「絶対嘘ですよね、それ!」

頭痛い。両の手で大事に台湾からの贈り物を抱えたまま、は思った。どうやら、かの「王家」の幹部とやらは、とんだ変わり者らしい。もしかして、有力マフィアの上層部は、変人しかなれないのだろうか。密かに自らの義兄二人が心配になっただった。

「とりあえず…無断撮影は訴えませんから、その代わりお願いがあるんですけど」
「おや、なんですか?」
「台湾ちゃんに…ありがとう、って伝えてください」

瞬間、これまでずっと静寂を称え続けていた黒の双眸に、温かな日差しが差し込んだのを、は見た。
明るい調子の店員の声が耳に届く。陶器が触れあう高い音と共に、二人の前に湯気の沸き立つカフェ・ラッテがそっと置かれた。綺麗に円の描かれた泡面をぐるりと揺らして口元に運ぶ。がそれを一口飲み込んでから顔をあげると、本田菊は右目を開けたまま、左目の前でカメラを構えて笑っていた。
パシャリ。


「喜んで」






出会いは曖昧


( もしよければ、今度我が国に遊びに来てくださいね。お誘い?いいえ、まさか。ただの”お願い”ですよ )

































 
オレンジ色の空が、遠く山の彼方まで続いていた。
安定の悪い屋根の上に腰掛けたまま、はどこまでも続くその色を見据えていた。目下に広がる田園風景も、その向こう側に広がる街並みも全て、等しく染めていく夕焼けの色。南国の果実に似た色だと、思い込もうとしたこともあった色。何もかもを焔の海へと投げ込んだような色彩を、は眺め続ける。
頬を撫ぜる夜の温度を孕んだ風が、の体温を奪っていく。意識することなく、身体を縮めるように膝を抱えていた両腕に力が籠もる。昼と夜が混ざり合うこの時間帯だけが見せる景色は、とてもきれいだ。一時たりとも同じ染料が使われることなく徐々に変化していく空の色は、延々と眺めていても飽きることはないし、ぽつぽつと少しずつ灯っていく街の灯は人々の温かな生活を象徴しているようで安堵感を生む。

なのにどうして、こんなに落ち着かないんだろう。

透明なマニキュアを塗った爪先が、握った腕に突き刺さって痛い。白と桃色の梅花があしらわれた異国の髪飾りでくくった髪が、風に攫われていく。ああもう、そろそろ下に戻って、マシューの手伝いをしなきゃいけないのに。頭ではわかっているのに動かない足に、はほとほと自分に呆れ果て深い溜め息を吐いた。

「どーかしたですか?」
「いや、別、に……って、ピーター!?」
「はいです!ピーター君ですよ!」

ぎょっと思わず身体を引いた途端、屋根の上でバランスを崩しかけただったが、なんとか両足で踏ん張ってその場に留まる。ここから落ちたら、さすがに怪我をしかねない。あ、なんか変な汗かいた。細く安堵の息を吐いて、改めては突如として現われた少年を見つめた。

「ピーター!あれほど屋根の上には上っちゃだめ、って言ったでしょ!危ないんだからね」
の方がよっぽどあぶねぇですよ」

ぐうの音もでない、とはこの事だ。密かに、先日アーサーに言われた言葉がくさりと突き刺さった。ばれていないと思ったら、意外に子どもたちはの行動を知っていて、それを真似することもあるようだ。これからは、できるだけ無断外泊しないように気をつけよう。こっそりと心に誓うだった。

「しかも足音殺して近づいたりしてーもう、びっくりするでしょ」
「アルフレッドの野郎に習ったのですよ。これでピーター君も立派なマフィアなのですよー!」

この家で暮らす子どものひとりであるピーターは、最近やけに「立派なマフィア」になることにご執心だ。いったいどこで憶えてきたのやら。
足音を殺せることが「立派なマフィア」なのかはよくわからないが、アルフレッドがそういうことを子どもたちに教えているのは遊びとしてどうなのだろう。思うことは山のようにあったが、とりあえずは目下の問題を解決するべく、屋根の上で慎重に立ち上がった。

「ほら、戻るよピーター」
「やーですよ!まだ、のぼったばっかりなのですよー!」
「わがまま言うなー!」

後から抱え込むようにピーターの身体を両腕で捕縛する。が、ここがどこかをあっさりと忘れたのか、ジタバタと暴れるピーターに、の足元がぐらりと揺れた。いくら子どもといえど、ピーターは十を過ぎた男の子だ。との身長差だって二十センチ程度しかないし、こんな安定感のない場所では、普段どおり支えることも適わない。まずい、落ちる。反射的にピーターの身体を手放そうとした瞬間、予想外の事態がを襲う。逆に、ピーターの手がを掴んだのだ。

「うわっ…とと」
「だ、大丈夫ですか、!!」
「あーうん。ピーターのおかげでなんとか」

なんてことだろう。は内心、今起きたことを信じることができなかった。屋根から落ちかけたを、ピーターが助けた。あの小さかったピーターに、を支えるだけの力があったなんて。思わず何度も瞬いて、目の前のピーターを見つめてしまう。子どもの成長とは、なんと早いものだろう。
その視線を良い意味で捉えたのか、ピーターは自慢げに顔を綻ばすと、青い水兵帽を深く被り直してを見上げた。

「ピーター君だって、のこと守れるんですよ!なんたって、」
「『立派なマフィア』だから?」
「! はい、そうなのですよ!」

どすんと効果音でもつきそうな勢いで、飛び込んでくるピーターを今度はしっかりと支え、はもう一度視線をあげた。
広がるのは、先ほどよりも藍色を増した世界。まるで燃え滾る炎に深海の水を撒いたようだった。世界が鎮火していく。の心が、どこかで凪いでいく音が聞えた。
遠く、家に繋がる一本道の彼方に一台のバイクが見える。アーサーだ。今日は久々に、全員揃って夕食を囲めそうだなあ。目敏く自分達の存在を見つけるだろうアーサーには、きっとまたコテンパンに怒られるのだろう。そんな数分後の未来を想像して、の口元は穏やかに緩んでいた。
彼女の世界は、今日も鮮やかに彩られている。






情報屋とマフィア予備軍


( 数年後、彼が彼女にとってどんな存在となるのか。それはまた別のお話。 )

































 
押し殺された、子どもの声が聞こえる。

それが泣き声であることは、扉の前に立つ青年にはすぐにわかった。込み上げる嗚咽を必死に飲み込んだせいで、喉からはひくついた音がいくつも零れ落ちていた。
なんでや。なんで、そない我慢するんや。
冷たい金属のノブに手をかけたまま、青年はただ呆然と立ち竦んでいた。けれど、いくら待ってもその声が止むことはなかった。また今晩も、眠らないつもりなのだろうか。真っ赤に腫れた目が必死に洗っただけで、誤魔化せているとでも思ったのだろうか。
目蓋を閉じれば、青年の中を後悔とは違う罪科の意識が通り過ぎていく。直接、手を下したわけではない。けれど、それゆえに重いのだと、毎夜聞こえるこの音が責めたてるのだ。気が付けば、青年の中にはふつふつと怒りにもにた泡沫が浮かびあがっていた。水面に溜まってどんどん大きくなる不条理な感情が破裂した瞬間、青年はゆっくりと扉を押し開けていた。

「また、泣いとったん?」
「アン、トー…ニョ」
「あーもう、目ぇ真っ赤やんか。鼻もトマトみたいやで」

切れ切れの声にアントーニョと呼ばれた青年は、ベッドの淵に腰をおろすと、つんと少女の鼻を突っついた。
照れくさかったのか、少女はベッドの上で膝を抱えたまま、被っていた毛布を鼻の上まで引き上げる。けれど、それでも兎のような真っ赤な瞳は隠れることなく、アントーニョのほうを戸惑いながら伺っていた。覗きこむように見上げるその目は、静かに零され続けた涙で湿っていた。子どもの体温を湛えた目元に親指で触れれば、温かな中に確かな水の冷たさを感じる。どれだけ長い時間、少女がひとり涙していたのかを想像するのは簡単だった。こんなにも身体から水分を搾り出して、乾いてしまったりしないのだろうか。人間の身体は全体の七割近くが水分なのだという。アントーニョが簡単に抱えてしまえるくらいに小さな少女の身体には、もしかしたらもっとたくさんの水が内包されているのかもしれない。何とはなしに、アントーニョはそんなことを考えてしまった。

「夢、みたん?」
「…………うん」
「そっか。ひとりで我慢してたんやなぁ」

俯いてしまった少女を撫でるアントーニョの手のひら。それにすっぽりと収まってしまうほど、小さな小さな少女の頭。あの日、薄暗い路地裏に蹲っていたころから、少女はずっと小さいままだった。成長期の子どもだから、身体は着実に大きくなっている。けれど、こうして夜になると必ず縮こまってしまう少女は、群から外れた小動物のように弱く儚く、アントーニョの目には映った。少女自身もそれをわかっているのだろう。ただ、なんとかしなければならないと、思っていてもどうにもできない葛藤が、余計に少女を責めたてていた。太陽が主役の時間帯は、もうひとりの同居人が辟易するくらいに明るい少女を思い出し、アントーニョはくすりと笑ってしまった。
笑い声が漏れてしまったのだろう。訝しげに顔をあげた少女に気付き、アントーニョは頭を撫で付ける手のひらをぴたりと止める。

「明日も畑行かなあかんし、もう寝よか」
「でも…」
「心配せんでもええよ。ほな、俺も寝させてもらうわ」

言うが早いか、アントーニョは器用に少女の身体を乗り越えると、ベッドの端を陣取ってごろんと横になったのだった。予想だにしなかった彼の行動に少女が目を丸くするのもお構いなしに、アントーニョは少女を誘うようにシーツを叩く。おずおずと戸惑いを隠さぬ様子で、促されるまま少女が身体を横たえると、アントーニョの逞しい腕が少女の身体をぐっと引き寄せた。

「ほら。こうしたらも眠れるやろ?」

問いかけは、少女が想像していたよりもずっと近くから聞こえた。前からも後ろからも感じる自分のものとは違う人間の体温が、妙に温かく身体に染みこんでいく。ちょうど顔を押し付けているアントーニョの胸からは、少女よりも少しだけ早い心音が低く響いていた。それはまるで子守唄のように穏やかな音色となって、少女の涙腺を解いてゆく。こくん、と少女の頭が縦に小さく動くのと同時に、アントーニョは自分の胸の当たりが冷たく濡れているのに気がついた。

「これからは、ひとりで我慢したらあかんで。眠れんなぁ思ったら、俺んとこに来るんやで?」
「でも…迷惑じゃ」
「迷惑なんかとちゃうよ。がひとりで泣いとるほうが、よっぽど嫌やもん。それに、そう思うとるんは、俺だけとちゃうで?」
「え?」

意味の掴めない言葉に少女が首をあげると、視界の端でアントーニョが何かを手招きしている様子が見えた。丁度、部屋の扉を背にしている少女には見えないが、建て付けの悪い扉を押す甲高い音と、床を歩く足音が耳に届く。首を必死に回した少女の瞳に飛び込んできたのは、暗い部屋の中でも微かな光を吸い取って煌めく、オリーブの実だった。

「……ロヴィ?なんでここに」
「おれがいたら、まずいのかよコノヤロー」
「う、ううん。ただ、ちょっとびっくりしただけ」
「ロヴィーノものことが心配やったんなぁ」
「うるせーよ、はげ!」
「なんや、照れとるん?かわええなー」
「てめぇ…!」
「あ、あかんて!ここで頭突きはやめとって!!、潰れてまうやん!」

盛大な舌打ちに、少しの照れ隠しが含んでいるよな気がしたのは、自分の気のせいだろうか。少女が考えていると、ごそごそとシーツが擦れる音がして、毛布とは違う温度が背中から伝わってきた。
いくら子どもばかりとは言え、シングルサイズのベッドは三人が眠るには手狭だ。端から落っこちてしまわないようにと寄り添ってくるロヴィーノとアントーニョとの距離は限りなくゼロに近かった。しかも少女にはまだ慣れないのだが、この青年と少年は必ず衣服を脱いで眠るのだ。少女が居る前で全裸になることはないが、シャツを脱いだ上半身からはしっとりとした肌の感触が直接伝わってきていた。
けれど少女が感じたものといえば、照れくささや恥かしさではなく、一欠けらの安堵だった。
ひとりでも眠れるよう、室内には小さな灯りが点されている。それでも閉じることができなかったはずの目蓋が、だんだんと重くなっていく。
耐え切れずに閉じた目蓋の内側で、変わらずオレンジ色の炎がゆらゆら揺れている。けれど、少女にはわかる。自分を挟むように、左右に並んでくれている確かな温もり。顔をあげれば、自分を見下ろしている微笑み。手を伸ばせば、握ってくれる大きな手のひら。歩幅の違う自分を待って、腕を引いてくれる仏頂面。には、もうわかっている。ふたりが、そばにいてくれること。

「みんなで一緒に眠っとったら、きっと夢も逃げてってまうでー」
「ばーか。夢が逃げるかよ」
「…あんなぁ、ロヴィーノ。お前、もうちょお素直に俺の言うこと受け取れへんの?」
「……うるせぇ。まあ、ひとりで眠るよりはいーんじゃねぇの。狭ぇけど、寒くはねーしな」
「せやで。くっついとったらあったかいもんなぁ。なあ、。……?」
「……すー…」
「なんや、もう寝てしもたんか」
「おれも寝る」
「ん、せやなぁ。ふあ…俺も、眠ろか」

それから、部屋に響き渡るのが三つ分の規則的な寝息だけとなるまでに大した時間はかからない。この日を境に少女の夢が消えることはなかったし、青年の隠す咎がなくなったわけでもなかった。少年が少女に自分の境遇を話すのも、ずっと後のことだ。
けれど、確実に変わったこともあった。
それは翌朝、三人で囲む食卓の席で明らかとなった。カリカリに焼いたバゲットに、オリーブオイル、トマト、フラメンカ・エッグにエスプレッソと温めたミルクの並んだテーブルに現れた少女。その瞳は、ぼってりと腫れていて、誤魔化すことなく真っ赤に染まっていたのだった。






( 知らないかもしれないけれど )


( 太陽も月も妖精も知らない。これは、ずっとずっと彼らだけの秘密のお話。 )